いぞうさんの菊池暮らし2
「豪雨災害に思うこと」
この度の豪雨災害で被災された皆様に、心よりお見舞い申し上げます。
わたしたち「ちゃーこからの菊池便り」のお仲間でも、曲げわっぱの「そそぎ工房」さんや、新しくペット用オーガニック食品を提供してくださる予定の「シーファーム」さんも被災されました。
人命に別条はなく、お怪我もありませんでしたが、そそぎさんのところは道路が寸断、孤立して取り残され、「シーファーム」さんは水産加工場を土砂でやられました。
復興には時間もお金もかかり、気力体力を奮い立たせる必要があるでしょう。
彼らのパワー、生命力なら問題なく再起されると思いますが、私たちに何ができるか、最大限の協力をして参りたいと思っています。
しかし、自然災害が続きますね。
思い返せば、私たち一家がこの九州へ移住してきたのは2011年の東北大震災が原因でした。
子供たちも東京や横浜にいて、大変な思いをしました。
ただし、天災だけならば移住はありませんでした。
地震の被害はどこにいても出会ってしまうものだからです。
私たちが移住を決意したのは、原発が爆発し、放射能がまき散らかされ、関東も汚染されてしまったという情報があったからです。
生涯の被ばく許容量を考え、日常の被ばくを少しでも減らしたいと思ったからでした。
私が熊本を移住地に選んだのは、全国にある原発施設の位置関係と、空気の流れとしての偏西風の影響を考えてのことでした。
原発が爆発すれば放射能は偏西風に運ばれるので、北上していきます。
しかし、熊本にはその西に原発がありません。
偏西風の影響は大丈夫です。
周辺では北九州には玄海原発、鹿児島には川内原発、四国には伊方原発があります。
仮にどこかやられたとしても、偏西風の関係から熊本はエアポケットで、割合に汚染が少なかろうという判断がたちました。
無論、時にランダムな風向きで汚染されることはあり、完全に無傷ではいられないでしょうが、それでもよそに比べれば一番被ばくを避けられる場所だと考えました。
放射能被害といっても、爆心地にいる訳ではなく、私とカミさんは既に60代に入っており、細胞の新陳代謝も少なくなって、健康に大きな被害が出ることはないはずですが、娘たちは違います。
これから子供を産むこともあるだろう娘たちは、すなわち母親になる可能性が大きかったのです。若い女性の体内に蓄積された放射性物質は、妊娠した場合、栄養分と同じに子宮に運ばれるそうです。そして胎児の体内に埋め込まれ、出産後は母親の体内には放射能が残らない為、むしろ健康になるのだと。私にはこれが一番耐えられないことでした。
子供でデトックスし、母親が健康になる。
おぞましい輪廻です。もろに親の因果が子に報い、というやつです。
生まれた子に異常が出たら、あるいはいつか白血病や心筋梗塞や、子供が人生を放射能のせいで歪められてしまったら。何も知らなければ罪の意識に怯えることもないでしょうが、娘はそういう知識を持ってしまった以上、その時身悶えして自分を責めることになってしまいます。
娘にそんな思いはさせられない、と考えました。
私たちはそういう性格の家族なのです。
無論、政府が認めていない以上、そういう事態が私たちの誰にでも起こりえることだ、などと友人であれ、誰であれ人様に言うことはできません。
嘘つき呼ばわりされるか、神経質な奴に煩わされたくないと、皆さん思うでしょうから。
私たちは考えに考えて、静かに熊本移住を決意しました。
ペットの愛犬たちを含めた私たち家族だけで。
移住は原発爆発後、1年経っていたので素早い皆さんにはかなり遅れを取っていましたが。
以前から阿蘇の雄大な景色に憧れ、いつか熊本に住んでみたいという秘かな願望があったのも後押ししてくれたのでしたが、私たちは今、熊本の一角で暮らしています。
しかし、その熊本も、移住して間もなく地震被害に遭いました。
熊本大震災です。
大変な状況の中、私は地域おこし協力隊として市役所職員の皆さんと共に支援物資の受け入れや整理に働き、熊本市内で被災した娘の一人やその友人たちを一時受け入れるなど、大わらわで対応しました。
関東暮らしの口の悪い友人は、お前の行くとこ災害が起きるな、と笑います。
移住など、無駄なあがきだよという訳です。
しかし、私は自然災害そのものを嫌って移住した訳ではないのです。
災害に遭いたくはないけれど、良寛さんの言葉にもあります。
「災難に遭うときはあうがよく、それはそれ、災難を逃るる妙法にて候」
受け入れるべきは受け入れる、避けられないものなら進んで共に生きていく。
それくらいの覚悟はできています。
今回、豪雨災害で被災された皆さんの気持ちを思うと軽々しいことを言うべきではないと思いますが、東北大震災の時、TVで見た東北の漁師さんの言葉が頭から離れません。
「先祖から海の漁師で生きてきた、海があったから生きられた。家族も家も、暮らしそのものが海からもらったものだ。だが、今度は海に全部持っていかれた。家も、かみさんも、暮らし全部を。一人取り残された。だが、海を恨めない。俺はまた海で生きていく。漁を続けながら。それが俺の生きる道だ。」
悟りの言葉ですね。
生きる喜び、悲しみ、辛さ苦しさ、それを全部引き受けながら生きるという、究極の姿勢がここにはあります。生きる覚悟とはつまるところそこです。
そもそも自然災害は地球の必然から生じるものでしょう。
大地が溜まったエネルギーを吐き出す時大地震が起き、豪雨災害は地球の水分が地球の生理に伴って移動する際に起きるのです。
地球温暖化が長雨の原因になっているとすれば、悪いのは人間で、それを受け流すために地球が生理の調整をして、それが豪雨につながるのでしょう。
その際、人間が犠牲になるとしても、私たちの命はそもそも地球があって存在できるのです。
地球が生理現象を起こすことが地球の命の欲することなら、津波や地震、豪雨災害で私たちの命が失われることは、宇宙の働きに貢献することかもしれません。
少なくとも意味がないことではないと感じます。
無論、一人ひとりにはとてつもない悲しみがこみ上げます。
辛く、耐え難い経験です。
しかし、それで地球が生命活動を続けていられるのだという事実に慰められます。
ところが原発の被害は違います。
あれはどこかの年寄りたちが、権力や通帳残高を見てほくそ笑むための犠牲です。
未来を担う子供たちや、この先生まれてくる人類の後継者が、くだらない欲の為に放射能で命の在り方を歪められてしまうのです。
私自身もそう気づかないで、そんな世の中の歯車として生きていました。
TVの広告費が私のギャラの原資でした。
私もどこかの年寄りの一人でした。
勉強してみれば原発の発電力や経済効果など子供だましのトリックにすぎません。
その年寄りたちのおぞましいようなエゴを支えるのは、誰か悪人がいたり、陰謀が仕組まれているという事ではなく、みんなが経済が持たないと大変なことになるとの思いに支配されている為なのです。
突き詰めれば資本主義という怪物の仕業です。
そのことを原発の爆発は気づかせてくれました。
放射能だけではない。
化学的な添加物質や環境を取り巻く人工的な物質。
私たちが子供の頃はがんで死亡するものは7,8人に1人とかでした。
それが見る間に5人に1人となり、3人に1人となり、今では2人以下1人以上という数値となりました。放射能と相まって、毎年毎年食べ物に1000もの化学的添加物が増やされていくという現実とも無関係ではないでしょう。生活環境にも化学物質が入り込み、私たちの命は自然から隔離されていきます。化学物質が私たちの自然な生命活動を脅かします。
全部19世紀の産業革命以降、人間が資本主義という怪物に魅せられて以来の流れです。
資本主義の歪み、その象徴があの原発爆発でした。
あそこには私たち人間が出会う、今起きていることの核心が露呈している、と感じました。
お金の為に未来の子供たちの命を悪魔に売り飛ばす。
真犯人のいない悪事が国を支配していました。
国を挙げての事実無視、TVは経済的ピンチを日本広告機構からのお金で乗り切りました。
日本広告機構は経済界のお金で回されています。
放射能に関し、SNSでは沢山事実が指摘されたけれど、指摘した人は嘘つき呼ばわりされていました。私はツイッターウオッチャーとなり、物事の流れを観察し続けました。
そして原発危険と指摘して嘘つき呼ばわりされた人たちの言ったことが、結果本当だったというデータが半年後にひっそりと政府のホームページに載せられているのを見ました。
もう誰も騒がず、半年前に本当のことを言ったのが誰で嘘を言ったのが誰か、検証する人は誰もありませんでした。
あの事態を私は嫌悪します。
人間の弱い心に原因があるのでしょう。
欲の為に理屈を振り回し、嘘をこね回し、邪悪に人を巻き込んでいながら、自分こそが真犯人だと気づきもしない現実を、私は憎みます。
自然災害に対してはそういう気持ちにはなりません。
今、豪雨災害に出会って、被災された人の悲しみに寄り添い、慈しむことは大事だけれど、だからと言って自然を、大地を、地球の水の流れを憤り、憎むという気持ちにはなれません。
災害による苦しみは、私たちのエゴが肥大しすぎて自然を征服しようなどとおごった考えに取りつかれたことが原因となっているのではないでしょうか。
今回の豪雨災害から、私たちは学ぶことがあるはずです。
言い古されたことだけれど、自然との共生とか自然に遠慮して生きるとか、そろそろ本気で気持ちの切り替えが必要だと感じます。
コロナは大変困ります。
暮らしが不便になり、経済が回らなくなり、先行きに大きな不安が垂れ込めます。
しかし、あれが人為的なものでなく、自然の計らいで生まれてきたものなら、私たちはコロナを憎むのではなく、別な道を探さなければいけないのではないでしょうか。
コロナウィルスが強固になって登場してきたことにはそれなりの意味があるのかもしれません。
地球にとっては必然なのかもしれないと思います。
とりとめのないことばかり書き連ねましたが、昨日はぼんやりとそんなことばかり考えていた一日でした。ともかく、私たちのお店がお付き合いする生産者の皆さんは、どなたも自然を大切に、自然と共に生きたいという姿勢の方々ばかりです。経済のために効率よく商品を大量生産する、原価を抑えるために添加物を使う、そんな考えの人は一人もいません。
皆さんがお互いを大切に、地球環境を思い、自分に恥じない生き方をしようとされています。
だから、今回被災はされましたが、自然を恨んだり、いじけたり、打ちのめされたり。
そんなことは決してない人たちだと信じます。
自然は時に私たちを打ち倒すけれど、一方で私たちの命を育んでくれるのです。
自然に欲得勘定はなく、誰かを犠牲にして自分だけがいい目を見ようなどとは決してしないのです。豪雨には豪雨の必然があるのです。
私たちはそこを見逃さず、生きる道を見つけていきたいものです。
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