菊池との出会い2
今回の原稿は店主のいぞうさんが担当します。
わたしは熊本へ移住する前は神奈川県に住んでいました。
現役時代は「橋本以蔵」というペンネームで映画やTVのシナリオライター、監督をやっていました。
大した才能でもないのにたくさんチャンスを頂け、身に余るようなお仕事をさせて頂きました。
ずいぶん長いこと頑張らせて頂いた気がします。
ただ、自分は年配者より若い人の気持ちに向けてドラマを構築するタイプの作家だったため、自分自身が年を取って若い人の事情が分からなくなるにつれ、ドラマ構築が困難となってきました。
自分はケータイもPCもない時代に大人になったもので、ケータイやPCが存在する世の中に出てきた人たちとは、感覚が決定的に違っていたからです。
60を前に、そろそろリタイアして余生を、、、、なんて考えてた時、東北震災が起きました。
そして原発の爆発です。
原発爆発の害がどうであるとかないとかはここで論じたくはありません。
政府が大丈夫という以上、怖がるのは私たちの勝手で誰の責任にも転嫁はできませんから。
ただ、私は娘たちをこのまま関東に住まわせておくことはできないと判断しました。
彼女たちは結婚前で、未来に出産を控えていたからです。
私自身、丁度引退しようかと迷っており、引退するならどこか田舎に引っ込んで静かに絵でも書いて暮らしたいな、と思っていました。
それで色々考えた末、熊本を移住先に選びました。
阿蘇のイメージが強く、火の国というロマンを感じ、かねてから憧れに似た思いがあったからです。
また偏西風と原発の立地から、最も安全と判断したからでもあります。
そこで下見を何回か行い、確信を得て一家揃っての移住を決行しました。
仕事を整理し、自宅を売却し、身辺を片付けました。
最初に住んだのは熊本市内でした。
県下の様子が分からなかったからで、阿蘇近辺は海抜が高く、冬の厳しさが気になりました。
娘たちはそれぞれ仕事を見つけ、懸命に地元に溶け込み、生活の基盤を作ろうと頑張っていました。私はあちこち車でドライブしながら、長く住むのに適した場所はないかと土地を物色していました。そして見つけたのが菊池市だったのです。
温泉の宝庫で、景色が美しく、阿蘇を望む平野部もあれば、阿蘇から続く山岳部が景色に変化をもたらし、水は阿蘇の伏流水が豊かで、熊本の米どころとして有名な場所でした。
そこでつてを頼って菊池の農村部に家を探し、理想的な農家の空き家が見つかったのです。
リタイアしたら田園生活、それが夢だったので、原発からの緊急避難の割には素晴らしい生活が手に入りました。全てがトントン拍子でした。ご縁というやつでしょうね。
私は菊池市に馴染むために、折から市役所で募集中だった「地域おこし協力隊」に応募しました。まずは地域に馴染み、知り合いを増やし、生きる基盤を作りたかったのです。
何しろ知り合いゼロでしたからね。
そして仕事しながら人脈を広げていったのです。
「菊池アートフェスティバル」を立ち上げた時は、長尾さん以下熊本アートオーガニゼーションのアーティストさんたちと知り合い、以後、深いお付き合いとなりました。
同じくアートプロデュースで活躍する吉田舞子さん、また菊池一族をめぐっては郷土史家の堤先生、田中先生、他沢山の人たちと力を合わせ、郷土史の掘り起こしをさせて頂きました。
市役所の皆さんにもお世話になりました。
忘れてならないのは村上さん、北里さん、鈴木さんという地域おこし協力隊の仲間たちです。
1人とびぬけて年齢の高い私を仲間とみなし、あらゆる面で助けてくれました。
特にwebに関しては小森田さんに手取り足取り教えてもらいました。
それ以外にもご近所の方たちや大勢の方々と交流させて頂きました。
本当に楽しかったあ!
学生時代みたいで、まるで青春が蘇ったみたいでした。
その結果、この菊池市という土地が思い描いた以上の理想的な場所であることを知るようになるのです。何しろ人々がとてつもなく優しい。そして誠実、それぞれに自分の想いに向かって真っすぐに努力する人たちでした。この3年間で、菊池市に永住する決意が固まりました。
惚れ切ってしまったのです。
そして、最後までこの土地に力を尽くそう、地域おこしを続けようと思ったのです。
この項、続く
0コメント