菊池歴史ツアーガイド・3「菊池本城外回り」



菊池ツアーガイド3回目です。

本城裏手の「雲の上宮」に懐良親王にお住い頂き、それを守るように守山の砦が置かれ、その前面に本城御殿が建てられました。

さらに前面には隈府の町が新造されてあたかも懐良親王の「雲の上宮」にかしづくように設計された菊地惣構え。

今回は再び菊池本城守山の砦に戻り、そこから東方の物見台、さらに東福寺へ降りていき、守山の砦の麓を回遊するように整備された井出を辿って正観寺へ歩きます。




さて、「雲の上宮」から弓道場を過ぎ、守山への細くなった県道を辿って乳母が坂から再び守山砦へ戻りましょう。

この乳母が坂はかつて守山砦の主郭であった現菊池神社から尾根を辿り、2の郭へ向かってくると出くわす小さな空堀跡であろうと思われますが、現在の人にはただの県道としか認識されないでしょう。

その県道を超えると明治時代の日露戦争の記念碑などがある尾根に出ます。



そこにはラブベンチがしつらえられており、眼下には隈府の街並みを超えて熊本の金峰山などが見える絶景が広がります。

桜の季節には守山全山に桜が咲き誇り、桜は今の菊池のシンボルとして人々を堪能させてくれます。平和な時代の市民の憩いの場としてこれ以上の場所は考えられないくらいの美しさです。

近くには月見殿もありますね。

菊池一族の人々が歌を詠み合った風流の地です。




さらに東方に進もうとすると、今度は明治初期の西南戦争の名残りに出くわします。

西南戦争では熊本を攻めた薩摩軍と政府軍が激戦を展開し、田原坂の戦いは有名ですが、その後崩れた薩摩軍を追って政府軍が攻撃を繰り返し、次第に退却を余儀なくされた薩摩軍はこの菊池へも後退しながら抵抗戦を展開しました。

植木から田島方面、さらには七城や玉祥寺へと戦線は移動し、薩摩軍は阿蘇方面を辿って落ち延びていったようです。

その時の薩摩軍、政府軍の墓は各所に残されており、この守山の上にもあるのです。

そういう墓地や徳富蘆花、愛子の記念碑などが2の郭には残され、さらに東方には3の郭が伸びています。




さらに進んでいくと、途中にはエキゾチックなキリスト教徒のお墓があり、美しいマリア像が見られます。

その辺りから西へ前面に守山を下ると、菊地武光公のお墓がある正観寺がありますが、ここはぐっと我慢して尾根道をたどり、3の郭に進みましょう。




東に向かって右側には正観寺や菊地女子高、菊池川などが望めますが、左側には大きな運動グラウンドが整備されています。

私の妄想として、ここはかつては切り落とされたくぼ地、谷状の地形をしており、菊池本城の詰めの城として機能した守山砦の武者だまりや畑などが整備されていたのではないか、と推理しているのですが、いかがでしょうか。

守山の東方すぐに城氏の治めた木庭地区があり、木庭城という山城がそびえています。

城氏は菊池一族の重臣で、特に城隆顕(じょうたかあき)は菊池武光公の懐刀として大いに力を発揮した智将であったといいます。

この木庭城はいずれご案内しますが、守りの堅い、非常になわばりの優れた堅城で、菊池本城を守るサイドの固めとして大変有効に機能したと思われます。

城隆顕の優れた知力が発揮された功績なのですね。




その木庭城からこの菊池本城東の郭は、駆けつけようと思えばすぐ駆け付けられる距離と位置取りにあり、駆けつけた兵士は東の谷に設けられた城門から入って城兵として守りを固める、という動線が想定されます。

菊池本城は南北朝時代の城としてはかなりの規模を持っており、相当数の兵士を動員できない武士団に維持できる城ではありません。

ここはまさしく菊池一族ならでは構えうることのできない巨大な主城だったことが明白です。

武光公はこの城を固めるために、城一族、赤星一族、西郷一族、水次、出田氏、鹿島氏など、主だった家臣たちから兵を駆り出し、城番を務めさせたでしょう。

そんなことに思いを馳せながら、今度は東福寺へつながる小径を下っていきましょう。





そこに今は小さくなってしまった東福寺が残されていますが、おそらく旅人が昔日の巨大寺院の栄華を思い起こすことは困難でしょう。

小さなお堂は鄙びた素朴さで、菊池五山第一刹の威容を想像することはできません。

今は住宅地となってしまった辺り、そして菊池川方面にさらに下って畑や水田と化した農地にまで、東福寺は広がっていました。

歓喜院があったという場所には一三代武重公のお墓が残されていますが、今の人はただ単に畑の中にお墓がある、としか思わないのでしょうね。




かつてはここは大きな僧院の境内の一角であった場所なのです。

それが年月を経るうちに寺域が切り売りされ、今では跡形もなくなってしまっているのが現実なのです。寂しいですよね。

菊池のお寺はみんなそうです。

これから熊本を治めた加藤清正が整備したという井出を辿って正観寺に向かいますが、その正観寺も同じです。

かつては菊池五山別格として、1千人の僧侶が修行したという巨大寺院でしたが、やはり今は見る影もありません。

しかし、かつて東福寺境内であった武重公のお墓に立ち、吹く風の寂しさを味わうのも菊池一族を想う味わいなのかもしれません。

諸行無常の響きが聞こえてきますよね。

四季折々の田園風景の見事さと菊池川の流れが詩情を添えていてくれます。




今度は田畑を潤す為の清らかな水の流れを守るために清正公が命じて整備させた井手、すなわち小運河を辿って菊池最後の正統党首、能運公(よしつらこう)のお墓のあるグランドホテルまで歩きましょう。

この井手、少し前までは、夏には蛍が群れ飛んだといいます。




さてグランドホテルにさしかかりました。

グランドホテルも、能運公のお墓があることで分かるように、かつては正観寺の境内に位置する、桐の木の実相院のあった場所なのです。

その境内がいくつかのホテルや観光ホテル街、飲み屋街と変身して今に至った菊池正観寺。昔日はとても広大なお寺だったことが分かりますよね。


グランドホテルからホテル笹乃家、さらに小径を辿って現存する正観寺へ向かえば、さあ、今に残された正観寺。





小さくなってしまったとはいえ、正観寺には地蔵菩薩坐像の残された地蔵堂や武光公、武政公のお墓が残されています。

特に武光公のお墓は亀の台座に乗った立派なものです。

味わうべき風情の残された美しいお寺です。

歳振りし古木に武光公の魂が宿っているかのようです。





いかがでしたか、ここまでの3回は結果的に菊池本城めぐりの旅となりましたね。

懐良親王をお迎えした菊池を都のように整備して行き、禅の五山制度を敷いて九州を平定した菊池武光公の偉大な功績がここまで歩いてきた菊池主要部には集約されています。武光公の夢と野心はこの地から始まったのです。

この3回で辿った地域には菊池の魂が込められているといっても過言ではありません。

そんなかつては菊池本城だった地域を巡ってきました。

ここまで来れば起点となった市民広場、市民公園は目と鼻の先。

とりあえずの菊池本城コース巡りは終了といたしましょう。





現実世界でならば、ここから望月旅館などのホテルへ入ったり、菊地ならでは、昭和ノスタルジイのクラブや赤ちょうちんの並んだ飲み屋街へ繰り出すなどのお楽しみが待っていてくれるのですが、WEBツアーではそうはいきません。


残念。


次回は能場や将軍木の御所通りから隈府の町を経巡ってみることにしましょう。

それではお楽しみに!

ちゃーこからの菊池便りブログ

店主のちゃーこです。 熊本県菊池市でアート&雑貨&自然食品のお店を家族で営んでいます。 ちゃーこや取材担当のいぞうさんが商品の紹介や日々のことなどについて綴っていきます。

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