菊池歴史ツアーガイド2・「雲の上宮」
菊池ツアーガイド、第2回目です。
前回は菊池本城をご案内しましたので、今回は引き続き、本城裏手へ足を延ばして頂きます。そこには「雲の上宮」跡地があるのです。
上の絵の、砦部分の背後にあるのが「雲の上宮」です。
現在菊池神社の裏手には巨大な空堀があります。
詳しく調べられてはいないようで、これが南北朝時代のものか、その後のものか判然としないということですが、私の見るところでは、これは武光公時代の菊池本城に付帯する設備ではないと思うのです。
というのは、南北朝時代は騎乗した武者が主戦闘要員であり、鎧があまりにも重いので、巨大空堀は必要ありません。また、飛び道具も弓矢ですので大きな距離は必要ないでしょう。矢が一切届かない距離では相手を傷つけることができず、堀が大きすぎることにメリットはありません。
いくさの設備というものは防衛もさることながら、相手の戦力を削ぐことに眼目があります。この裏手の空堀の規模から考えて、明らかに鉄砲戦を想定した結構であると思うのですが、皆さんはどう思われますか。
巨大空堀
さて、この空堀は置いておいて、この本城裏手を谷に降りると、林に囲まれて池が姿を現します。「親王の出水さん」という立て看板があり、懐良親王在城の頃も湧き出ていたもので、日常の生活に使われていた、と書かれてあります。
周辺は今では物寂しい風情と化しており、土地の人は子供の頃このあたりで遊んだが、不気味に感じていた、と言ってました。
子供の感性からすれば、あたかも親王や当時の人々の幽霊が現れてきそうに感じる風情であることは否めません。大人の眼にはそれが幽玄でロマンチックなのですが。
物静かで侘びさびが好もしい。素晴らしい趣の谷だと感じます。
この池を通り越し、細い階段が現れますので、それをどこまでも上がっていった先の山頂に「雲の上宮」の跡地が現れます。
小さなお堂が建てられた狭い敷地で、「守山城及び内裏尾」とされ、懐良親王の御所跡だと伝えられています。
ここで懐良親王についてご説明しなければなりません。
親王といえば天皇家の皇子様のことで、王子様がなぜこんな九州の菊池におられたのか、普通に考えれば謎に感じるはず。
そこには南北朝時代の特殊な時代背景がありました。
南北朝時代というのは、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇と、本来その腹心の部下であった武士、足利尊氏が争い始め、後醍醐帝の南朝に対し、足利尊氏の建てた傀儡政権が北朝を称して、南北両朝の権勢争いが始まり、それが全国に広がって、日本中が南朝につくか、北朝につくかで2分して大戦争を繰り返していた時代です。
南朝は強大な北朝に押されて劣勢となりながらも、あくまで正当な王権を主張して戦い続けました。後醍醐帝は早くに亡くなりましたが、後を引き継いで戦い続けたのは多くの皇子たちとそれを支持する南朝側武士団でした。
それも次々に倒されていったのですが、その最後の希望が九州へ下向した征西大将軍たる懐良親王だったのです。
大将軍とはいえ、落ち武者同然のあり様で九州へきて味方についてくれる武家を探した懐良親王でしたが、なかなか味方に付いてくれる有力武士団は見つかりませんでした。
それを最後に引き受けたのがこの菊池、その第15代たる菊池武光公だったのです。
懐良親王を保護した菊池一族は以後、親王を奉戴して九州制覇にかかり、敵対する北朝勢をことごとく倒し、ついには九州を統一、征西府を太宰府に進め、さらには九州武士団9万を率いて瀬戸内海賊軍団に先導させて中央に攻め登ろうとさえしました。
懐良親王と武光公とは切っても切れない絆に結ばれ、生涯を共に戦場に暮らし、夢と野心に向かってあくなき戦いを続けたのでした。
壮大でロマンチックなお話でしょう。
でも、これは実話。
懐良親王イメージ像
菊地武光イメージ像
その懐良親王を菊池にお迎えし、お住い頂いた場所が、この雲の上宮だったのです。
今お堂がある場所そのものが雲の上宮だったわけではなく、おそらく今は住宅地として切り開かれてしまった山上の一帯に、大きな御所が展開されていたものでしょう。
そこは前面を守山の砦が守り、背後は大分まで続くような山塊群が遮って、容易に攻め寄せられない難攻不落の御在所だったわけです。
「雲の上宮」という名の通り、皇家を仰ぎ頂く菊地家にとって、守山よりもさらに高い場所は親王にお住い頂くにふさわしい特別な場所とされたものでしょう。
前を守る守山のみならず、さらにその前方に展開する隈府の街並みは、武光公がデザインして建設された新市街であり、そこは条里制で設計され、折れを多用した街路は敵の侵入を警戒する為の構成でした。
武家屋敷群や町民たちの住まい、寺や神社が配されて非常に戦略的です。隈府の両サイドは迫間川と菊池川によって掘割と同じ防衛効果が想定されていました。その最前面は切明から菊の池にかけて人工的な掘割が斬りとおされ、惣構えとして防衛されました。
つまり、「雲の上宮」を守る形で菊池本状の砦が置かれ、隈府の町割りが構築され、親王の御在所を守ったのです。
そういう防衛ラインの中心部がこの「雲の上宮」なのです。
菊池本城砦の裏手
残念ながらこの御所の跡地は正確に発掘調査が行われておらず、当時をしのぶことが難しいのですが、菊池本城としての守山砦を歩いてみれば、そこには700年の歴史を超えてきた当時の風が吹き抜けるばかりの味わいを感じることができます。
「雲の上宮」から足を延ばし、弓道場を超え、守山の砦を背後から眺めると、土橋状の現国道のある痩せ尾根の両サイドには谷が堀となって守山を取り巻いて防衛ラインを築いていたのだと認識することができます。
この守山は当時としてはなかなかの規模で、これだけの砦を守るには相応の兵力が必要であったことが推測されます。
この守山及びその前の本城御殿を範囲とする武光公による菊池本城は、まさに菊池守護の本城にふさわしい、当時としては実に巨大なお城だったわけですね。
これだけの城を構えるには、やはり城一族や赤星一族、出田一族他、大勢の家臣団を従えて兵を動員できるだけの威勢が必要だったことは一目瞭然で、菊池一族最盛期の勢い、規模が実に壮大であったことが偲ばれます。
菊地惣構え想像図
東の谷は今では運動場として整備されていますが、想像を逞しくすれば、東にある城一族の木庭城からの兵士たちが急の知らせで駆け付け、谷の入り口に築かれた東門から谷に置かれた武者だまりに入ったということはなかったでしょうか。
そこには籠城時のための食糧確保のため、畑が切り開かれていたのかもしれません。
菊池本城の規模といい、雲の上宮の宮様の存在といい、菊地はまさに菊池都!
武光公時代の菊池のなんと豪壮であったことよ!
さて、次回はこの東の谷を出て守山の下の井出を辿り、東福寺から正観寺を経て本城御殿跡に向かう道筋をご案内いたします。
どうぞお楽しみに。
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