2022 謹賀新年
謹賀新年。
皆さん、いい年を迎えられましたか?
わたし、いぞうさんは年末30日に村の守り、お稲荷さんに飾り付けをし、村の入り口の道に旗立てをしました。
村の人総出で毎年新しい年を迎える行事として行います。
竹を切り出して旗を通し、くいを打ち込んで番線でしっかりと固定します。
大変なのが縄ない。
これはもう村の人たちもなかなか上手にできなくなっていて、年配者でわずかにできる人がいるのみで、若手たちに教習が行われているようです。
私も挑戦しましたが、全然うまくできません。役立たずでした。
でも、これからじっくり技術を習得して上手になえるようになりたいと思いましたね。
年が明けて1月1日になると、朝の9時にお稲荷さんに集まって拝賀式というものを行います。
それぞれが初詣をし、焚火を囲んで挨拶を交わし、今年のみんなの無病息災を祈り、注意事項などを区長から申し渡されます。
それからお酒が配られ、年始の乾杯の音頭でつまみの炒り子を頬張りながら喉を潤します。
いいもんですよ。
村の共同の行事としてはそれ以外に、年に何度かにんちく(たぶん、人築、と書くものと思われます)があり、田の畔の草刈りや、井出の泥さらいを行います。
それだけでなく、村の貯水池の水さらい、草刈りが定期的に行われ、お稲荷さんの掃除や天神さんの掃除、拝賀儀式などが行われます。
菊池の農村地帯に住み着く前は、田舎の風景を
「きれいだなあ、心が潤うなあ、日本の風景は最高!」
なんて能天気に思っていましたが、そんな日本的風景は、こうやって住人の人々が汗水たらして守っていたからこそ、ありえたんだなあ、としみじみ思いました。
お米作りを中心に暮らす村としてはこういう共同作業が守っていかれないと、暮らしが成り立ちません。
農家の人たちが定期的に草を刈り、畑に作物を植えて育て、収穫したら水を入れて田んぼにします。
それはすべて暮らしのための必要不可欠な作業として村の歳時記に組み込まれ、延々と守り続けてこられたものです。
日本の里山を懐かしみ、その味わいで心を潤すということは、こういう生活の必然と切っては切り離せないものだったのです。
ですが、近代の資本主義はこういう暮らしを根こそぎ変えようとしています。
つましく足るを知って生きるという暮らしが大切にされなくなり、誰もが豊かな暮らしを夢見てお金の稼ぎ高を気にする世の中です。
私が子供のころ、島根県の田舎で暮らしていましたが、やはり百姓は稼げない、かっこ悪いという風潮でした。
みんな中央、東京を目指し、そこで勝負するんだと田舎を後にしました。
私もそれに漏れず、東京へ出て自分の我を頼りに勝負し、いっぱし何事かをやれたような気がしたものです。
でも、生活という面で見ると、都会は豊かではありませんでした。
物価は高く、土地と家を手に入れなければならず、そこには大きな費用が掛かりました。
サラリーマンの人なども生涯をかけて家と土地を手に入れるわけですが、結果、手に入る家と土地の小ささ狭さよ、という感じです。
子供たちははやりの家を手に入れたいとばかり、親の苦労して手に入れた家と土地には見向きもしません。
今は都会でも空き家が問題になっていますよね。
ところがです。
3・11の震災があって、やがて原発が爆発し、この日本がブラック国家になっているんじゃないかという気付きがあって経済競争から降りようと決めて田舎を目指した時、熊本へ移住して知った田舎暮らしは、なんて豊かなんだろうと驚かされてばかりでした。
熊本の農家はすべて敷地が広く、豪邸かと思えるような大きさの家ばかり。
私たち一家もそんな豪農の空き家に住まうことができました。
菊池の空は広く、広大な風景は眼を遮りません。
農産物には恵まれ、東北大震災の時、流通が止まって関東にいては安全な食べ物が手に入らないのじゃないかと怯えたようなことはあり得ません。
住まうこと、食べることが豊かで、そしてそこに生きる人々は純情で優しく、細やかな情の通い合いがあります。
そんなことどもに感動して村の行事に参加することが楽しくなってしまうと、見える世界がまるで違っていました。
今、村にとどまって昔と同じ生活をする人々は、大切な何かを守り続ける人たちだ、と見えてきました。
本当の豊かさとは何か。
昔は田舎の空気感が嫌で、共同体意識は煩わしく、冷たい都会の空気感の方が心地よいと感じていました。
カッコいいとも思ったものです。
でも、優勝劣敗、勝ち抜いた勝者がすべてを手にする世界観に、今、世界は苦しんでいます。
1パーセントの勝者が世界の富を手にし、99パーセントの敗者を置き去りにする価値観のもとに、世界は編成され終わろうとしています。
そんな世界では原発が爆発しようと、空気が汚染されようと、さらに富という名の妄執を増やすために地球を10個必要とするほどに資源を食い尽くそうとしています。
でも、みんなが憧れるリッチな豊かさって、実は妄念の世界にしかないのではないでしょうか。
預金残高は一定以上を超えるともう数字でしかありません。
自己満足以外に価値があるのでしょうか?
そんなもののために私たちは地球を食い尽くそうとしていませんか?
眼を開けば、もはやすでにわれわれは豊かで満たされているのに。
自然は毎年必要な実りを提供してくれています。
節度さえ守れば、我々は飢えなくていいところまで技術を進化させています。
楽しく暮らせるのです。
経済を中心にしたシステムが不幸を生み出していませんか?
貧しい人を生み出しているのはこの経済システムではないですか?
もう、みんなが豊かに暮らせるシステムに切り替えないと。
資本主義、そろそろやめませんか?
てなことを思う私は田舎暮らしで、あまりな快適さにボケが来て、タガが緩んでしまった老人になってしまったんでしょうか?
世界から取り残されたリタイア爺さん?
でもねえ、色々考えちゃうんです。
こんな田舎に暮らしてたってね。
専業農家の人は少なく、みなさん働きに出たりしています。
若者はどんどん少なくなって、10年後に今の農村風景が守られているか、確証はありません。
不動産屋さんや建築会社さんは食うために次々に田舎風景を破壊していきます。
菊池の将来はどうなってしまうんでしょうか。
こんな豊かな田舎暮らし、いつまで続けられるんでしょうか。
環境活動家のグレタ・トウンベリさんじゃないですが、このままじゃまずい、なんて焦りを感じてしまう今日この頃です。
このきれいな空気を吸いながら死んでいきたいなあ、なんて。
とはいえ、今年も年が明け、太陽は美しく私たちの村を照らし出してくれました。
先のことは知らず、ともかく目の前の日常の中で精いっぱいできることをやりましょう。
ことしも人築に精を出し、できるだけ質素に暮らし、余分なエネルギーを浪費せず、村の共同体に感謝し、菊池の豊かな自然を愛しながら、一日一日を生きていきましょう。
太陽さん、ありがとう、阿蘇の湧水さん、ありがとう。
少なくとも、今日の菊池の田舎暮らしは豊かです。
感謝。
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