菊池市の歴史ロマン 菊池武光の挑戦と挫折 第2回
武光公が構想して建設した菊池惣構え。
750年の昔、九州で国際港博多、格式の大宰府に次ぐ、絢爛たる都として栄えた菊池一族の巨大城塞都市「菊池」がなぜ生み出されたのか。
それを生み出したのは菊池一族第15代当主、菊池武光公でした。
日本中が北朝、南朝に分かれて相争い、南朝は北朝に押され、菊池も北朝勢に蹂躙されて乗っ取られようとしている局面に颯爽と登場、わずかな手勢で菊池から敵勢を蹴散らして歴史上にデビューしてきた武光公。
折しも後醍醐天皇の命を受け、北朝に攻め立てられて劣勢の南朝を立て直すべく、味方してくれる武士の勇者を探すために皇子懐良親王が遥かに西下してきていました。
そのタイミングはまさに運命的でした。
菊池本城御殿。
新党首に就任するや否や、懐良親王を菊池にお迎えし、征西府という幕府を開いた菊池15代当主、菊池武光公。
南朝と運命を共にし、菊池の未来を切り開こうと決断した武光公でした。
それにはまず、菊池一族内部においてはあまたのライバルたちを抑え込み、皆を統括しなければなりません。
亡き武重公の息子たちや、肥後もっこすの重臣たちを抑え込むことは容易ではなかったはずです。
何しろ相続順位が低い妾の子だったのですから。
北朝に寝返りたいものなど、武光公の寝首を掻きに来かねない相手も多数あったでしょう。
それを抑え込んで使いこなす。
その為にも二人が取りうる道は1つだけでした。
菊池本城城山。
周囲の北朝勢に挑み、うち破り続けること。
死に物狂いだったでしょう。
突っ走る以外に生存が保証されなかった若者2人。
しかし、その一念が道を開きました。
武光公の戦上手の才能が花開き、初戦勝利に恵まれたのです。
続いて連戦連勝するなかで、2人には次第に未来のビジョンが見えてきたことでしょう。
いける!
おれたちはやれるぞ、と。
いずれは大宰府に進出すること。
九州を統一して本州に攻め上り、日本を南朝の元に統括すること。
それが武光公の戦略戦術であり、同時に2人の執念の目標となったのです。
それは終わることのない戦の連鎖、果てしない夢と野望の戦いでした。
菊池の棟梁として肥後守に叙勲された武光公と懐良親王はタッグを組んで周囲の北朝勢に戦いを挑んでいきました。
破竹の勢いでした。
2人は結果を出したのです。
軍神としての才能を一気に開花させた若武者菊池武光公は縦横無尽に戦って見せ、結果を出し続けました。
懐良親王も苦労人らしく、収まりかえったお上品な皇族などではありませんでした。
自ら刀を振るい、軍勢を率いて突撃し、武光公との素晴らしいパートナーシップを見せ、数々の勝利に大いに貢献したのでした。
菊池本城御殿における御松囃子能が懐良親王の為に演じられた。
二人はがっちりとパートナーシップを構築して見せました。
同じく父親の無念を晴らす宿願を胸に秘め、サバイバルをかけて死に物狂いの突撃力を示したのです。
さて一方で、武光公には指導者としてなさなければならない道筋がありました。
菊池の民人すべてに未来のビジョンを見せ、人心を収攬すること。
人々をして一丸となって力を結集させる。
周囲も内側も敵だらけの状況の中を突破し、夢に向かって進む為にはそれしかなかったのです。
その為にも目に見えた生活の向上、富を手繰り寄せて見せること。
武光公についていけば間違いなく生き残れる。
富に恵まれる。
戦で地元が疲弊しきることはない。
菊池の人々にそう確信させることが、武光公には求められたのです。
輝かしい夢、ビジョン、それを具体的に指し示すことが。
いや、それを示せること自体が武光公を稀代のリーダーとして、菊池一族や民人をなびかせる才能の証明に他ならなかったのです。
武光公はまさに動乱期に求められるリーダーだったのです。
院の馬場では菊池武士団が武芸の技を磨いた。
そんなビジョンを空論でなく、具体的に人々に示すためにこそ、都菊池を整備した武光公。
都菊池の誕生です。
敵に蹂躙されたこれまでの菊池の守りの弱さを克服もしなければなりません。
その両方を一気に解決する道が、まずは本城移転でした。
菊池川の深川にあった館を、それまで砦城として使ってきた現城山に移すのです。
同時にその前面、現在の隈府に新市街を構築すること。
無論武光公が着手して即座に完成した訳ではなく、息子の代にかけて整備されていったことではあるでしょうが、いずれにせよ当時としては全く革新的な城下町整備事業でした。
両サイドを菊池川、迫間川で挟み、立石に大手門を置く、広大な総構え(惣構え)としての城塞都市計画は、南北朝期としては画期的で前代未聞です。
多くの学者さんの著書を見ても、当時詰めの城を背後に置いた御殿配置、その前面に防衛的区画割りした城下町を設計した例は見られません。
いかに武光公の構想が革新的であったことか。
専門家の検証を待ちたいところです。
雲の上宮は懐良親王にお住い頂いたが、そこは城よりさらに高みにあった。
さて、その城の奥の高所には懐良親王にお住い頂いた御所が建設されました。
郷土史家の堤先生によればその御殿は離宮であり、御所は隈府にあったということですが。
菊池川沿いにあった深川の港はやはり武光公の時代に拡大整備されたようです。
最近市役所生涯学習課の発掘によって新たな遺構が発見されました。
その港は日本各地や海外からの物資輸入の基地であり、また菊池の産物の輸出基地でもありました。
その産物は無論農産物や林業の木材もありましたが、出色なのは軍需物資、刀剣の類です。
延寿太郎というブランド名で鳴らした菊池の刀剣類は莫大な利益を菊池にもたらしたはずです。
戦には巨大な軍費が掛かります。
延寿鍛冶屋敷とは延寿太郎というブランド名の軍需産業の工場であった。
同時に都建設には莫大な資金が必要となります。
それを延寿刀鍛冶や深川の港が支えたのです。
深川の港は国際港として整備され、倭寇による戦利品が運び込まれた。
そして武光公の構想はさらに膨らんでいきます。
博多や九州水軍を動員して倭寇(密貿易や海賊行為による)を行い、莫大な富を作って戦費とすること。
経済と軍事活動は分かちがたく菊池を支えていったのでした。
戦で勝ち続けること、西征府という幕府を置く場所として恥じない都を整備すること。
皇室の王子をお迎えしてシンボルとして奉くに恥じない構えを持つこと。
そんな菊池のビジョンを、武光公は次々と実現していったのです。
菊池は変貌していきました。
一族の本拠だった館城、菊の城から隈府の守山に本城を移転させたのは武光公だった。
計画的に整備された新市街は隈府と呼ばれ、都の様相を呈して繁栄した。
臣下の者たちももはやゆるぎない信頼を武光公に寄せるようになりました。
菊池一族は持ち直したのです。
田舎豪族の本願地でしかなかったものが、九州制覇、日本統一へ向かう巨竜の母体。
壮大な総構えを持つ時流の最先端を行く城塞都市へと変貌していきました。
その成長は武光公と懐良親王の登り龍としての成長と歩みを一にしていました。
次第に九州は2人の率いる南朝の勢力が伸長していきます。
針摺原の戦い。
麻生山の戦い。
武光公と懐良親王が戦に勝利して帰る度、菊池の人々は台大地までお迎えした。
日向攻めと、2人は九州中に旋風を引き起こしていきました。
それらの戦いは全て、都菊池をベースとして出撃して行われたのでした。
もはや二人の行く手を阻むものはあり得ないかのようでした。
菊池はさらに栄光の輝きを獲得していきます。
第3回に続く
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