菊池市の歴史ロマン 菊池武光の挑戦 ・第1回
菊池市には知られざる歴史ロマンがあります。
750年の昔、九州で国際港博多、格式の大宰府の2大都市に次ぐ、絢爛たる都として栄えた菊池一族の巨大城塞都市「菊池」が誕生しました。
それを生み出したのは菊池一族第15代当主、菊池武光公です。
上図は菊池総構えの図です。
菊池本城を中心に城下町が展開されています。
福井の朝倉ご城下、一乗谷は総構えとして有名ですが、南北朝時代にすでにその十倍の規模を持つ総構えの巨大城塞都市が菊池には築かれていたのでした。
それを築いたのは菊池武光!
鎌倉時代以前に土着して連綿と支配を続けてきた菊池一族でしたが、武光公就任直前には不遇をかこち、あわやその運命は風前の灯火という状態でした。
日本中が北朝、南朝に分かれて相争い、南朝は北朝に押され、菊池も北朝勢に蹂躙されて乗っ取られようとしていました。
そこにこつ然と現れ、わずかな手勢で菊池から敵勢を蹴散らして見せたのが、当時豊田の十郎と名乗っていた菊池武光公だったのです。
武光公は12代当主武時公の息子でしたが、妾でも順位の低い女性の息子であったため、菊池では冷遇されて飛び地である豊田の庄を与えられて冷や飯をくらわされていたのです。
誰にも期待されず、暴れ者として周囲の北朝勢を相手に暴れまわっていた十郎。
それが突然菊池最大のピンチのさなか、わずかな手勢を率いて敵勢を追い払ったのですから、それは華々しいデビューと言えたでしょう。
占領されていた菊池本城を奪回した豊田の十郎。
その鮮やかな手際が後の常勝将軍の実力を垣間見せていました。
しかし、菊池人、肥後人はなまなかな人たちではありません。
意地もあれば頑固でしぶとい「肥後もっこす」です。
その程度でいきなり武光公をわれらが当主として迎えはしなかったでしょう。
武光公を15代当主として認めるか否か、菊池は大揉めに揉めたに違いありません。
何しろ南朝勢は敗北寸前、北朝勢に寝返るべきという考えや、当主には誰それしか許せない、などの意見が百出、下手をすれば考えの違う相手に寝首もかかれまじき緊迫状態だったはずです。
そんな中で14代当主は菊池をまとめきれないとさじを投げたほどでしたから、うかつに就任しても15代にどんな運命が待っていたことか。
しかし、そんなさなか、豊田の十郎は菊池武光と名を改め、15代就任を勝ち取るのです。
それはすべてを賭けた大博打だったでしょう。
幼い頃、父武時の博多の戦での敗北死を目の当たりにし、その無念を晴らすにも冷や飯を食わされてチャンスを与えられなかった武光公の情念がここにきて一気に爆発したとしか思えません。
そんな武光公の切り札が、南朝のプリンス懐良親王を菊池にお迎えすることでした。
後醍醐天皇の大勢ある子供たちのうち、一番幼かった懐良親王がわずかな手勢に守られて吉野を出立した時は、わずか9歳だったと伝えられています。
呼称だけは征西将軍と勇壮でしたが、頼りない一行でした。
北朝に攻め立てられて劣勢の南朝を立て直すため、後醍醐帝は日本中に息子たちを散らせ、味方してくれる武士の有力者を探すことを託したのでした。
多くの親王たちが次々に北朝勢の為に捕まったり殺されたりするその末に、懐良親王は四国から九州へ流れ歩き、10年の歳月をかけて菊池にたどり着いたのです。
そのタイミングはまさに運命的でした。
折しも20数歳で菊池第15代に就任した武光公。
その武光公にはバラバラになった人心をまとめる切り札が必要でした。
そこに後醍醐天皇の息子が菊池入りを打診してきたのです。
もしくは武光公が味方を探す懐良親王の動きを知り、誘い水を向けたのかもしれません。
菊池を統率する大義名分の為にこそ、武光公はまだ18,9だった懐良親王を菊池にお迎えすると決意表明しました。
武光公にとっても懐良親王にとってもこれは大博打でした。
武光公にとっては懐良親王を担いで南朝と運命を共にする、というのは決定的な決断であり、折から南朝圧倒的不利な状況では万に一つの逆張りです。
懐良親王にとっても運を天に任せた賭けでした。
周囲の大友、島津、など大物豪族が北朝勢であるなか、頼りの阿蘇大宮司家が煮え切らない為頼ることができずに仕方なくの決断だったのではないでしょうか。
有力豪族とはいえ、内紛に次ぐ内紛で力の弱っていた菊池に頼って明日があるのか。
明日が見えない状況は人を惑わせるものです。
しかし、初顔合わせした瞬間から、2人の若者には切っても切れない絆が生まれたようです。
幼くして互いに不遇の父親の無念を晴らすべく使命を担わされながら、兄たちの陰で無視され続けた人生。
しかし、その不遇の中で試練に次ぐ試練を経て、どちらも不敵で大胆、豪胆な戦略家の資質を育てていたのです。
電流が走るように、二人は互いに、この人物だ!と直感しあったのではないか。
同時に二人の取るべき行動は決まっていました。
戦いの道です。
その2人の運命は共に手を相携え、周囲の北朝勢を蹴散らしていくことで開かれてゆく。
それでなければ生存さえ危ういというのが痛いほど分かり合えたことでしょう。
周囲も敵なら内部にも敵はいます。
自分たちの実力と断固たる決断、後へは引かぬ実行力で結果を出し続ける以外にない。
二人はその瞬間、最高のバディになったのです。
夢と冒険、大博打のスリリングな物語が始まりました。
間もなく二人の戦いが始まりました。
菊池を天皇の息子をお迎えした都として整備すること。
そこに征西府という幕府を開くこと。
並行して周囲の北朝勢に挑み、うち破り続けること。
博多や九州水軍を動員して倭寇を行い、莫大な富を作って戦費とすること。
いずれは大宰府に進出すること。
それが次第に功を奏し始めると、新たな目標が見えてきます。
九州を統一して本州に攻め上り、日本を南朝の元に統括すること。
それが武光公の戦略戦術であり、同時に2人の執念の目標となったのです。
それは終わることのない戦の連鎖、果てしない夢と野望の戦いだったのです。
菊池人はなべてその奔流に巻き込まれていきます。
田舎豪族の家臣や領民という立場から、九州統括の栄光の一族の民となれるのか。
果ては日本統一して菊池幕府が開かれ、日本を支配する栄光の存在となれるのか。
全ては武光公の運命と実力が握っていたのです。
どうですか?
血沸き肉躍るとは思いませんか?
美しい若者2人がバディとなって、日本統一の夢にひた走る。
その行く手に待ち受ける運命やいかに!?
こんな阿蘇のふもとの小さな町に、こんな素敵な物語が隠されているんです。
不定期でこの物語の続きを書きますので、また読んでくださいね。
第2回へ続く
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