菊池市ってこんなところ!



この原稿はいぞうさんが担当しています。

私たち家族が菊池市に住むようになった経緯はこうです。

若い頃から漠然と九州は熊本に憧れがありました。

火の国、阿蘇が噴煙を上げ、荒ぶる土地。

現役をリタイアしたらあんな土地に住んでみたい。

それは手塚治虫の「火の鳥」の黎明編だったか、阿蘇の火口に火の鳥が住むという描写があり、そのイメージがあったからで、雄々しく壮大なスケール感に憧れを持ったんですね。

でも、本当に移住する気になったのは3.11で原発が爆発し、関東以西へ逃げなければ娘たちの健康が守れない、となってからでした。




最初は熊本市内に住んだのですが、暇にあかせてドライブを繰り返し、いつしかとある場所に頻繁に通うようになっていたんです。

それはたくさんの立ち寄り湯がある広い空を持った高原のような景色の場所でした。

阿蘇が生み出す豊富な湯の温泉たちがたまらない魅力でした。

「今は熊本といっても都会暮らしだが、やっぱりこういうところに住みたいなあ」

そうなって意識したその場所というのが、今住む菊池市泗水町だったのです。

熊本から車でわずか30分足らず。

県庁所在地の都会から豊かな田園及び高原風景の広がるゆったりとした光景へわずかな時間でたどり着けます。

都会の便利さをいつでも享受できながら、田舎暮らしの快適感を使いこなせる。

それが一番最初に感じたこの土地の魅力でした。

しかし、不動産屋を使って家を見つける気はありませんでした。

何といっても住みたかったのは農家さんだったからです。

ラッキーなことに絵画クラブの先輩にkさんという泗水町に住む顔の広い女性がいたので彼女に頼んでみました。

するとたちどころに数件候補を見つけてくれ、案内してくれたのです。

その一番最初に見せてもらった農家に一目ぼれ、サイトの絵でご覧頂いてますね、今ではその農家の住人になってしまったわけです。




広い敷地、快適な間取り、気持ちのいい区内の人々。

最高の住環境を手に入れました。

かみさんや娘も大喜びでした。

そののち、上の娘は結婚してアパートを借り、やがて同居となるのですが、下の娘は熊本市内のマンションに住みお勤めしています。

もはや5年近くもこの家に住み、今ではもうここを離れて生きることなど考えられないくらいです。

沢山のお友達もできました。

皆さん、ほんとに良くしてくれます。

しかし、最初からそれが分かっていたわけではなく、初めはどうすればこの土地に馴染めるだろうかと心配しました。

何しろ知り合いゼロ、どんな土地かを詳しく知らず、右も左も皆目不案内な私たちでしたから。




そこで応募したのが、折しも募集がかけられていた「菊池市地域おこし協力隊」でした。

総務省の事業で地方自治体が隊員を募集し、採用されれば3か年の勤務が可能で、地域おこしの為に粉骨砕身せよとの任務です。

これはいい!と飛びついてしまいました。

給料頂きながら土地柄に深くアクセスできるじゃないか!

お調子者ですみません(汗)(笑)。

とはいえ、おっかなびっくりでした。

なにしろ前職をリタイアしての移住ですから年が年で、もはやおじいちゃんの入り口に立っています。

採用されるかな、と半信半疑でしたが奇跡的に採用されました。

全国最高齢(おそらく)の地域おこし協力隊員の誕生です。

採用されたのは熊本大震災の年、いきなり災害支援に駆り出されるという波乱含みの任期スタートでしたが、「菊池アートフェスティバル」を立ち上げて3年間運営して人を呼びました。

もう一つの重大任務として、菊池一族というこの土地の豪族の歴史を絵に起こし、菊池武光公という埋もれたヒーローに再度スポットを当てる、という仕事をしました。

その成果は「幻の城下町菊池」という冊子となって残りました。

今では菊池一族に関して市民講座を持たせて頂き、お話をさせて貰っています。





何よりの成果だったのは、その仕事のお陰で市役所の皆さん、町の主だった方々と相当数知り合えたこと、町の構造や経済の在り方、歴史を詳しく知ることができたことでした。

そして一番ありがたく大切なことは、詳しく知って菊池愛が高まり深まり、菊池に対する思いを強くしたことでした。

それを多くの方々と共有できるようになったことが嬉しかったな。

今では菊池の良さを全国の人に知ってほしい、ここで生きる幸せを皆さんに分けてあげたい、もしかしたらここはユートピアかもしれない、という気持ちになっているほどです。

本当に皆さんに良くしてもらい、仕事を助けられ、気持ちを分かち合い、愛着を抱くようになりました。

できればもう死ぬまでここを離れたくない、今はそう思っています。

そう思うようになったなにより一番の決め手はやっぱり人です。




肥後もっこすといい、頑固でいこじで通っている肥後人気質ですが、誰も指摘しないことにとてつもない「優しさ」があります。

そして誠実さ。

人と付き合うにも仕事をするにも、肥後の人たちはなべて誠実です。

例えばこんなことがありました。

引っ越してきてすぐに家電の不具合から家電量販店に行ったのですが、そこの店員さんが、

「これは買い替えなくても、こうすればもちます、大丈夫です」

と言ってくれたのです。

最近は慣れましたが、生き馬の目を抜く関東のせちがらい社会で生きてきた私にはびっくりな出来事でした。

家電量販店の店員さんに血の通った接客をされたことはなく、できる限り高額な品を売りつけられることが当たり前でした。

色々な土地からの寄せ集めで、部品のように交代の利く人事のもとでは人は稼ぐマシーンとなって人間性をすり減らすしかありません。

そんな空気が人を疲れさせ、いらだたせ、疲れさせるのは、皆さんご存じの通り。

人口密度はそのまま非人間性につながっている、そういう気がします。

ここ熊本の菊池市にはそんな無機質な人の生きざまがありません。

いつも互いを思いやり、気を配り、フォローする姿勢が満ちています。

相手がどこの誰だかおおよそ見当がつくからなんですね。

それは息苦しさにもつながりますが、安心ももたらしますよね。

だからこの土地の人はよそに出たがりません。

あまりにも居心地がいいからです。

そんな土地柄なんです。





そんな人情の町、菊池市は4つの地域が合併し、人口5万弱の地方都市を形成しています。

旧菊池、七城、泗水町、旭志という行政区のより集まりです。

旧菊池は隈府というかつての菊池一族の都が置かれた古都です。

温泉街があり、背後には大分、阿蘇に連なる山岳部を控えた城下町です。

菊池渓谷という名所があり、白龍祭が夏祭りと共に行われます。

七城は菊池一族の時代7つのお城が置かれて穀倉地帯を守ったほどのお米どころです。

九州では有名なブランド米が豊富に採れます。

菊池川、迫間川、内田川などという河川が流れて合流する水郷地帯でもあります。

泗水町は熊本に続く地の利を生かして企業誘致が進み、ベッドタウンとしても合志市に継いで発展しようとしています。

旭志は何といっても牧畜ですね。

沢山の牛が生育しています。

それぞれの土地にはそれぞれの歴史があり、それぞれの課題を抱えつつ、未来に向かっては共通した課題に取り組まなければならない状況です。

日本全国が抱える同じ問題、人口減、収入減ですね。

そこに関しては、これからみんなで力を合わせて立ち向かわなければなりません。

トータルした菊池の向かうべき方向性、立ち向かう手段、経済の問題、人の活かし方の問題、地域の存在意義、誇りや生きがいをどう見出し意識していくか。

大きな課題です。

難しい問題ですが、それは日本全国、今ではどこでも抱える問題でしょうね。

こういう時代には独創的で剛腕なリーダーが必要な気がします。

言っても詮無いことですが、かつて菊池一族を率い、窮地の菊池を見事蘇らせ、都を築き、幕府を大宰府に進め、日本統一に動いた第15代菊池武光公の再来が望ましいと思えてなりません。

いや、これはたわごとですが。





風光は本当に明媚、美しい土地です。

阿蘇のように明確な観光資源はありませんが、すべてが美しい里山風景です。

渓谷美、山々の勇壮な連なり、そして高原地帯のような広大な視界の開けた平野部。

私が何より特筆したいのは広大な空の広がりです。

私の住む泗水町からは阿蘇が望め、田園風景が果てしなく続きます。

少し小高い丘に登ると彼方は八代当たりの山々まで見えており、頭を巡らせると有明海につながる玉名の空が見え、有明海を隔てた島原の雲仙が山越しに頭を見せています。

ここへ来ると決める前は人吉もいいなと思ったものです。

昔懐かしい風情に情緒があり、私の通った高校のある町と似ていたからです。

しかし、最終的には山々の圧迫感を避けてしまいました。

ここの空は本当に広い。

ノビノビとして胸のつかえがスーッと晴れていきます。

龍門地区の山間部の魅力も捨てがいたいんですがね。

九州最大の龍門ダムのある龍門地区は昔日の面影を残す風景が胸を締め付けるような郷愁を誘います。

林業が盛んでシイタケが名産です。

聖護寺という禅の修行道場があり、それは菊池一族の時代からのものです。

菊池一族が武門の信仰を預け、生と死の真相を解き明かして道に殉じようとした美意識の育ったお寺です。






菊池と言えば、私としては菊池一族を語らないではおられません。

紀元1000年頃から土着し、以来500年近くにわたって菊池を運営した一族です。

中でも第15代武光公は目覚ましい活躍をしました。

何しろ南北朝の争いの時代、劣勢の南朝を背負って立ち、後醍醐天皇の息子の懐良親王を奉戴して征西府という幕府を菊池に置き、北朝勢を連戦連破、ついには幕府を大宰府に進めました。

本州では南朝勢は壊滅の憂き目にあう中、一人九州は武光公の指揮の元、北朝勢を蹴散らして本州へ攻め上る勢いを見せました。

目指すは皇統統一、菊池幕府で日本全国を統治する、というビジョンを持ったであろうと確信しています。

しかし、その壮図半ば、謎の死によって表舞台から姿を消した武光公。

その間27年間の武光公の功績は菊池にとって計り知れないものがありました。

まず、本城を移転させ、その前に城下町隈府を計画的に建設しました。

それが今なお町割りとして菊池隈府を構成しています。

総構えとして城下町を形成すると同時に舟運による商業を振興し、延寿刀鍛冶による軍需産業の育成、さらには倭寇と呼ばれた海外交易や海賊行為、二毛作の開始、井出の開削、荒れ地の開墾などによる農業革命、禅家5山制度の制定による人身の収攬、などなど。

武光公の強烈なリーダーシップは菊池に革命を起こし、菊池の人々は今でも武光公デザインの町割りの中に暮らしています。




人々はゆったりと流れる時間の中、そこで暮らし続けているのです。

現代でも古い歴史の光芒に守られながら、人々の暮らしは紡がれ続けています。

古い土地柄ですから、若い人たちに先端的な流動性や流行物の輝きを用意してあげることは得手ではありません。

でも、井出ベンチャーなんてオリジナルなアクティビティがあったり、美味しいアイスクリームを作るお店があったり、密やかなお野菜レストランがあったり、大人気のピザのお店もあるし、それなりに新しい動きは活発ではあるんですよ。

こんな時代でも、若者たちは健気に自分たちの文化を作り出そうと、日々楽しく悪戦苦闘しています。

彼らを見ると、いとおしくなります。

歳ですね、アハハ。

しかし、古く変わらないものの恩恵を、私たちはたくさん頂いています。

菊池市には静かな暮らしがあり、安らぎがあります。

人々は好奇心旺盛で、よそ者を排他的には扱いません。

人を利益で見ないので、ぎすぎすとした居心地の悪さは微塵もありません。




少しは菊池市の説明ができましたでしょうか。

私たち一家の住む菊池市はそんなところです。

是非、一度訪ねてみてくださいね。

温泉の湯は最高ですから。

菊池温泉は町のど真ん中にあり、昭和の風情が懐かしい湯の香薫る町です。

でも、菊池はまだ無名です。

知名度がない分荒らされていません。

ここには本物の豊かさがたっぷりと残されているんです。

生涯をここで閉じること、それが私の新しい夢となりました。

ちゃーこからの菊池便りブログ

店主のちゃーこです。 熊本県菊池市でアート&雑貨&自然食品のお店を家族で営んでいます。 ちゃーこや取材担当のいぞうさんが商品の紹介や日々のことなどについて綴っていきます。

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